19●西郷隆盛・西南戦争・板垣退助・大隈重信・伊藤博文・大日本帝国憲法・岩倉具視・小村寿太郎

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19●西郷隆盛・西南戦争・板垣退助・大隈重信・伊藤博文・大日本帝国憲法・岩倉具視・小村寿太郎



1877年●西郷隆盛・西南戦争・板垣退助・民撰議院設立の建白書・大隈重信・立憲改進党

藩閥政治(はんばつせいじ)に対する士族の不満が高まると、九州や中国地方で士族の反乱が起こりました。1877年には西郷隆盛(さいごうたかもり)が西南戦争を起こしました。征韓論(せいかんろん)に破れて政府を去った板垣退助(いたがきたいすけ)は民撰議院設立の建白書(みんせんぎいんせつりつのけんぱくしょ)を提出し自由民権運動を始めました。1881年、政府が10年後に国会を開設することを約束すると、板垣退助は自由党、大隈重信(おおくましげのぶ)は立憲改進党(りっけんかいしんとう)を結成しました。




1885年●伊藤博文・大日本帝国憲法・帝国議会・教育勅語

政府は伊藤博文(いとうひろぶみ)をドイツへ派遣し、君主権が強いプロシアの憲法を学ばせました。1885年には内閣制度を作って初代の総理大臣に伊藤博文を就任させました。1889年、大日本帝国憲法を発布し、翌年に第一回目の帝国議会が開かれました。帝国議会は貴族院と衆議院の二院制をとっていましたが,国民が選挙で選べたのは衆議院議員だけでした。選挙権は25歳以上の男子で直接国税15円以上納める者に限られていました。1890年に教育勅語(きょういくちょくご)が発布されました。



 
1911年●治外法権の撤廃と関税自主権の回復・岩倉具視・鹿鳴館・陸奥宗光・小村寿太郎

不平等条約の改正は明治政府の重要課題でした。明治の初めに岩倉具視(いわくらともみ)らを欧米へ派遣したり、鹿鳴館(ろくめいかん)を建てて舞踏会(ぶとうかい)を開いた目的は、条約改正でした。日清戦争の直前、陸奥宗光(むつむねみつ)はイギリスと交渉して治外法権(ちがいほうけん)の撤廃(てっぱい)に成功しました。関税自主権の回復が達成されたのは,1911年でした。関税自主権の回復は、小村寿太郎(こむらじゅたろう)が外務大臣のときでした。


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