14●生類憐みの令・徳川綱吉・元禄文化・曽根崎心中・享保の改革・田沼意次・寛政の改革・松平定信の最近のブログ記事

14●生類憐みの令・徳川綱吉・元禄文化・曽根崎心中・享保の改革・田沼意次・寛政の改革・松平定信



1687年●生類憐みの令・徳川綱吉・新井白石
動物愛護の法律、「生類憐れみの令(しょうるいあわれみのれい)」で有名な五代将軍徳川綱吉(とくがわつなよし)は金貨の質を悪くして財政難を切り抜けようとしました。しかし、かえって物価の上昇を招く結果となりました。六、七代将軍に用いられた新井白石(あらいはくせき)は金貨の質を元に戻して、長崎貿易を制限して金銀の海外流出を防ぎました。




1700年●元禄文化・上方・元禄文化・曽根崎心中・浮世草子・松尾芭蕉・菱川師宣
17世紀末から18世紀初頭にかけて、上方で栄えた文化を元禄文化(げんろくぶんか)といいます。文学では『曽根崎心中(そねざきしんじゅう)』などの人形浄瑠璃(にんぎょうじょうるり)の台本を書いた近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)、浮世草子(うきよぞうし)の作者で「日本永代蔵((にっぽんえいたいぐら)」を書いた井原西鶴(いはらさいかく)、俳諧(はいかい)の松尾芭蕉(まつおばしょう)が有名です。絵画では、浮世絵の菱川師宣(ひしかわもろのぶ)がよく知られています。



 
1716年●享保の改革・徳川吉宗・目安箱・公事方御定書・打ちこわし

八代将軍徳川吉宗(とくがわよしむね)は享保の改革(きょうほうのかいかく)を実行しました。吉宗は新田開発や年貢の定率化によって財政の安定を図り、目安箱(めやすばこ)という投書箱を設置し、公事方御定書(くじかたおさだめがき)を定めて裁判の基準としました。吉宗の享保の改革によって幕府の収入は安定しました。しかし、米価は安定せず、江戸では初めての打ちこわしが起こりました。




1780年●田沼意次・株仲間・賄賂・百姓一揆・打ちこわし

18世紀後半に老中になった田沼意次(たぬまおきつぐ)は、商工業者に同業者の株仲間(かぶなかま)を作ることを認めました。株仲間に営業を独占させるかわりに税を納めさせました。しかし、大商人と結びついた結果、賄賂(ワイロ)が横行し、政治が乱れました。18世紀後半、天明の飢饉(てんめいのききん)が起こり、農村では百姓一揆、都市では打ちこわしが頻発して、老中の田沼意次は失脚しました。




1787年●寛政の改革・松平定信・昌平坂学問所・朱子学以外を禁止

田沼意次に代わり白河藩主の松平定信(まつだいらさだのぶ)が老中として迎えられました。定信は寛政の改革(かんせいのかいかく)を行いました。定信は、農民の都市への出稼ぎを禁じました。また、旗本や御家人の借金を帳消しにしました。さらに、昌平坂学問所(しょうへいざかがくもんじょ)では朱子学(しゅしがく)以外の学問を禁じました。

※松平定信は「幻の第11代将軍」といわれています。しかし、田沼意次の政治を「賄賂政治」と批判したため、松平家に養子に出されてしまいました。このことにより、松平定信は田沼意次を激しく恨み、暗殺まで計画していたと言われています。しかし、その一方で、幕府の一員になろうとして田沼意次に賄賂を贈っていたという逸話が残っています。松平定信の寛政の改革における政治理念は、幕末期まで幕政の基本理念として堅持されました。松平定信は江戸時代後期の名君として高く評価されています。


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