03●大和国家・高句麗・新羅・百済・聖徳太子・大化の改新の最近のブログ記事

03●大和国家・高句麗・新羅・百済・聖徳太子・大化の改新



300年●前方後円墳・埴輪・大和国家・大和朝廷・大王

3世紀後半,大和地方には強力な国がうまれ,カギ形をした前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)などの古墳が作られるようになりました。古墳の周囲には埴輪(はにわ)が置かれました。5世紀頃には世界最大級の大山古墳(だいせんこふん)がつくられた。この国を大和国家、その政府を大和朝廷といいます。その王は大王(おおきみ)と呼ばれました。




500年●高句麗・新羅・百済・渡来人・漢字・仏教・儒教

朝鮮では高句麗(こうくり)が北から勢力をのばしました。南部では新羅(しらぎ)と百済(くだら)が小国の統一を進めていました。大和国家は百済や小国が分立していた加羅(から)地方の国と結んで高句麗や新羅と戦いました。朝鮮半島から日本へ移り住んだ人々は渡来人(とらいじん)と呼ばれ、漢字・仏教・儒教や各種技術を伝えました。




593年●聖徳太子・摂政・冠位十二階の制・十七条憲法・遣隋使・小野妹子・法隆寺

593年、聖徳太子(しょうとくたいし)は推古天皇の摂政(せっしょう)になりました。聖徳太子は蘇我馬子(そがのうまこ)と協力して政治改革を進めていきました。摂政になった聖徳太子は、まず、家柄にとらわれず有能な人物を役人にとりたてる冠位十二階(かんいじゅうにかい)の制度を作りました。

さらに聖徳太子は十七条憲法を定めて役人の心得を示しました。また、中国の隋(ずい)に,小野妹子(おののいもこ)らを遣隋使(けんずいし)として送りました。聖徳太子は,仏教を盛んにするため大和の斑鳩(いかるが)地方に法隆寺(ほうりゅうじ)を建てました。この時代の文化を飛鳥文化(あすかぶんか)といいます。




645年●大化の改新・中大兄皇子・中臣鎌足・壬申の乱・天智天皇・天武天皇

中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)は645年蘇我氏(そがし)を倒しました。そして、唐(とう)を手本として、公地公民(こうちこうみん)を大原則とする改革に乗り出たのです。この改革を大化の改新(たいかのかいしん)といいます。

同じ頃に、新羅(しらぎ)は朝鮮半島を統一するために唐と連合して百済(くだら)を滅ぼそうとしました。中大兄皇子は百済に援軍を送りましたが白村江の戦い(はくすきのえのたたかい)で破れました。その後、中大兄皇子は天智天皇(てんじ)になって国内の改革に専念しました。

天智天皇の死後、672年、後継ぎの地位を巡る争いの壬申の乱(じんしんのらん)が起きました。この争いに勝利した大海人皇子(おおあまのおうじ)は即位して、天武天皇(てんむてんのう)になりました。



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