17●ペリー・日米和親条約・日米修好通商条約・尊王攘夷運動・井伊直弼・大政奉還・坂本竜馬
1853年●ペリーの来航・浦賀・日米和親条約・日米修好通商条約・下田と函館・不平等条約
1853年、ペリーの率いる4隻のアメリカ艦隊が浦賀(うらが)の沖に現れ、日本に開国を迫りました。その翌年、日米和親条約(にちべいわしんじょうやく)を結んで、下田(しもだ)と函館(はこだて)の2港を開港しました。大老の井伊直弼(いいなおすけ)は、朝廷の許可が得られないまま、1858年に日米修好通商条約(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)をハリスとの間に結びました。この日米修好通商条約は、裁判では治外法権(ちがいほうけん)を認め、貿易では関税自主権が日本に認められないという日本にとっては大変不利な、不平等な条約でした。
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1865年●尊王攘夷運動・井伊直弼・安政の大獄・薩摩藩・生麦事件・長州藩・外国船砲撃
開国によって経済が混乱し、幕府や外国に対する反感が強まりました。そして、尊王攘夷運動(そんのうじょういうんどう)が起こりました。井伊直弼は、この運動を弾圧し、安政の大獄(あんせいのたいごく)を行いました。しかし、井伊直弼は桜田門外で暗殺されました。薩摩藩(さつまはん)が生麦事件(なまむぎじけん)を起こすと、イギリスは鹿児島を攻撃しました。また、長州藩(ちょうしゅうはん)は外国船を砲撃して攘夷を実行しましたが、4国連合艦隊は下関を攻撃して砲台を占領しました。
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1867年●大政奉還・坂本竜馬・薩長同盟・徳川慶喜・王政復古の大号令・鳥羽伏見で戊辰戦争
薩摩藩と長州藩は,坂本竜馬(さかもとりょうま)の仲立ちで薩長同盟(さっちょうどうめい)を結びました。1867年、薩摩藩と長州藩が、武力で幕府を倒す計画を進めているとき、15代将軍徳川慶喜(とくがわよしのぶ)は政権を天皇に返すと申し出ました。これを大政奉還(たいせいほうかん)といいます。これに対して,朝廷は王政復古の大号令(おうせいふっこのだいごうれい)を発しました。1868年、鳥羽(とば)・伏見(ふしみ)で戊辰戦争(ぼしんせんそう)が始まり、旧幕府軍を打ち破りました。
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