12●豊臣秀吉・太閤検地・刀狩令・狩野永徳・出雲阿国・江戸幕府・徳川家康
1590年●豊臣秀吉・太閤検地・荘園の消滅・刀狩令・朝鮮出兵
信長の後を継いだ豊臣秀吉は大阪城を作り、1590年に全国を統一しました。秀吉は、太閤検地(たいこうけんち)を行って収穫高を石高で示させました。これによって荘園(しょうえん)は完全に消滅しました。また、刀狩令(かたながりれい)を出して兵農分離(へいのうぶんり)を進めました。最初、秀吉はキリスト教を保護しました。しかし、のちにキリスト教を禁止しました。1592年、朝鮮に出兵しましたが,李舜臣(りしゅんしん)の率いる水軍に敗れるなど苦戦しました。
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1573年●安土桃山文化・狩野永徳・千利休・出雲阿国・歌舞伎
安土桃山時代、豪華・雄大で活気にあふれた桃山文化が生み出されました。狩野永徳(かのうえいとく)はふすま絵を描き、千利休(せんのりきゅう)は茶の湯を大成し、出雲阿国(いずものおくに)は歌舞伎(かぶき)を始めました。また,朝鮮侵略の際に連れて来られた技術者によって、優れた陶磁器(とうじき)が作られるようになりました。
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1600年●関ヶ原の戦い・徳川家康・征夷大将軍・江戸幕府・大名・藩・旗本・御家人
徳川家康は豊臣秀吉の死後、1600年に豊臣氏をバックアップしようとする石田三成(いしだみつなり)らを関ヶ原の戦いで破りました。そして1603年、徳川家康は征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任じられて、江戸幕府を開きました。1万石以上の領地を持つ武士を大名(だいみょう)といいます。その領地と支配の仕組みを藩(はん)といいます。1万石未満の将軍の家臣は旗本(はたもと)、御家人と呼ばれました。
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1615年●武家諸法度・親藩・譜代・外様・参勤交代
幕府は、大名を将軍の一族である親藩(しんぱん)、関ヶ原の戦いの前からの家臣である譜代(ふだい)、関ヶ原の戦以後に家臣となった外様(とざま)に分けました。重要な地方には親藩や譜代大名を配置して、外様大名は遠い地域に置きました。1615年、幕府は武家諸法度(ぶけしょはっと)を定めました。さらに、三代将軍の家光(いえみつ)のときには参勤交代(さんきんこうたい)を制度化しました。
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1649年●慶安の御触書・五人組
士農工商の身分制度を徹底させ、特に人口の85%を占めていた農民については、1649年に「早起きし、朝は草を刈り、昼は田畑を耕作し・・・」という慶安の御触書(けいあんのおふれがき)を出して、日常生活を細かく統制しました。また、年貢納入や犯罪防止については共同の責任を負わせるため、五人組の制度をつくりました。
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