09●フビライハン・元寇・徳政令・鎌倉幕府の滅亡・後醍醐天皇・足利尊氏

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09●フビライハン・元寇・徳政令・鎌倉幕府の滅亡・後醍醐天皇・足利尊氏



1274年●元寇(げんこう)・フビライハン・元・1274年・1281年・集団戦法・火薬

モンゴル帝国を築いたチンギス=ハンの孫にあたるフビライ=ハンは,国号を元(げん)と改めて,中国の宋(そう)を滅ぼして、朝鮮の高麗(こうらい)を屈服させた後,1274年,1281年の2度にわたって九州北部を攻めてきました。これを元寇(げんこう)といいます。日本は元の集団戦法や火薬に苦戦しながらも、暴風雨の助けもあってこれを撃退しました。




1297年●徳政令・御家人の不満・効果は一時的・政治不信

御家人は元寇のときに多くの費用を使ったのにもかかわらず、恩賞をもらえず、生活がいっそう苦しくなりました。当然、幕府に対して不満を持つようになったのです。そこで,幕府は1297年,徳政令(とくせいれい)を出して御家人が手放した土地を無料で元の持ち主に返させました。しかし,効果は一時的なものに終わり、かえって幕府の信用を失わせる結果となりました。




1333年●鎌倉幕府の滅亡・後醍醐天皇・足利尊氏・建武の新政・吉野・北朝

後醍醐(ごだいご)天皇は足利尊氏(あしかがたかうじ)などの協力を得て、1333年に鎌倉幕府を滅ぼしました。後醍醐天皇は天皇中心の政治を始めました。これを建武の新政といいます。しかし,足利尊氏が反旗を翻して、後醍醐天皇は吉野に逃れました。足利尊氏は京都に新しい天皇(北朝)をたて、1338年室町(むろまち)幕府を開きました。南北朝(なんぼくちょう)の争乱の時代に,守護は次第にその国を支配下において守護大名に成長しました。




1392年●南北朝の合一・足利義満・元から明・倭寇・勘合貿易

14世紀の中ごろ,足利義満(あしかがよしみつ)が三代将軍となって1392年に南北朝の合一をはかりました。このころ,元に代わって明(みん)が中国を支配するようになっていました。足利義満は中国の求めに応じて,当時中国の沿岸部を荒し回っていた倭寇(わこう)と呼ばれる海賊を取り締まることを約束しました。その見返りとして勘合貿易(かんごうぼうえき)を認められました。勘合貿易では海賊と区別するために勘合符(かんごうふ)という合い札が使われました。

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